生活者の視点から異文化を理解し、自らの価値観を客観的に捉え直す。文化人類学は「すぐ役立つ」学問だ

《国立》埼玉大学 教養学部 教授
井口 欣也(いのくち きんや)先生
1964年、三重県生まれ。1988年、東京大学教養学部卒業。1994年、同大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学。新潟大学助教授、埼玉大学助教授などを経て、現在は埼玉大学教養学部教授。専門は文化人類学、アンデス考古学。南米ペルーの古代神殿遺跡「クントゥル・ワシ」の発掘、研究、保存活動に30年以上携わる。古代アメリカ学会会長。
先生が専門とされる「文化人類学」とは?
文化人類学は、文化と社会の探究を通じて人間についての理解を深める学問です。研究の手法は、フィールドワークが中心となります。「参与観察」といって、異文化の中に身を置き、その経験からデータを集めます。
コミュニケーションが好きで、強い好奇心を持つ人に向いている学問といえるでしょう。
異文化といっても、何も外国だけが研究対象ではありません。自分の身の周りにも、ふだん気付かない「異文化」が存在しています。
例えば、私の指導学生の卒業論文では、「現代日本の葬儀の多様化」「同性パートナーシップ条例」など、現代日本の諸問題が幅広くテーマに選ばれています。また、私が受け持つ「文化人類学入門」では、異文化の事例を取り上げながら、親子の関係や結婚など、現代日本を相対化して考える身近なテーマを設定して、自分たちの属する社会や文化について客観的に考える力がつくように工夫しています。
他の学問分野との違いを簡単に説明しましょう。例えば、経済学は社会全体をマクロな視点で理論に基づき研究しますが、文化人類学は生活者の視点で現場に密着しながらデータを収集、分析します。地理学や社会学とも手法は似ていますが、「生活者の視点」が文化人類学ならではといえるでしょう。また、歴史学が主に文字資料を研究するのに対し、文化人類学は口伝えの歴史や伝承、人々の実際の行動、生活上の技術、信仰・世界観などに着目します。
文化人類学の研究に進まれた理由は?
よその国で異なる文化や人々について知りたい、自分自身で現地調査したいという憧れがありました。文化人類学に惹かれたのも、そのためでしょう。
私の専門は「アンデス考古学」です。南アメリカの文字がない文明、しかもインカ帝国より数千年も前の世界を研究するようになったのは、日本のアンデス研究をリードしてこられた大貫良夫先生との出会いがきっかけです。人を引き付ける話しぶり、考古学のみならず現代のペルー社会・文化への深い造詣に魅了されました。
1988年、大学院進学時に、ペルー北部山地に紀元前1000年頃から千年近く栄えたクントゥル・ワシという神殿遺跡を発掘する、大貫先生が率いるプロジェクトに参加しました。アンデス文明で最古といわれる金製品が出土する、想像を超えた遺跡のすばらしさに惹かれるとともに、ペルーの学生や現地の人々との交流に魅力を感じました。それ以来、30年以上も発掘に関わっています。
そこで学んだのは、地元の人々との信頼関係の大切さ、そして現代社会における遺跡の活用を考えることです。
ペルーの場合、スペインに征服された後、植民地時代を経て混血化が進み、宗教もキリスト教化しているので、現代人の歴史認識や生活慣習はインカ帝国以前とは断絶があります。そこへ外国人がいきなり来て国宝級の遺跡を発掘するといっても、理解も協力も得られません。発掘の目的や成果をきちんと説明するなど、地道な情報共有が必要です。遺跡が地域住民の誇りになれば、保存にも積極的に協力してくれ、観光資源としても確立すると考えています。実際、貴重な出土品を収めたクントゥル・ワシ博物館は、地元の人々が管理しているのです。
インカ帝国よりはるか昔?! どんな文明だったのでしょう
古代アンデス文明の特徴は、農作物の栽培や土器の製作など、技術が発展途上にあった頃に、信仰や祭祀の場である神殿が成立したことでしょう。
紀元前2500年頃の神殿遺跡「コトシュ」は、まだ土器もない時代に築かれました。従来の歴史認識では、農耕の発達と余剰生産力が文明形成の前提とされてきましたが、それとは順序が異なる文明形成がなされた可能性があります。むしろ、神殿の成立や発展が、技術の発展を促したようなのです。
古代アンデスでは、もとの建物をきれいに埋め、その上に新築する「神殿更新」が何度も行われましたが、紀元前800年頃から神殿の大型化が始まります。人や物資を大量に集め、組織化する必要から、社会のリーダーが出現したと考えられます。
また、神殿内には墓がいくつも発見されましたが、やはり同時期から、副葬品の内容によって被葬者を区別するようになります。階層分化が始まった証拠といえるでしょう。
アンデス文明の形成期は、乾燥したペルー西海岸のオアシスが先進地域でしたが、紀元前800年頃、急に神殿が姿を消します。ちょうど、北部山地で大規模な神殿が出現する時期に重なり、先進地域の中心が移動したことがうかがえます。
当時は統一的な政体ではなく、信仰と交易を中心とした共同体の緩い連合だったでしょう。出土する土器の多様さから、神殿は多くの地域集団が交流する場であり、技術や文化が伝播していったと思われます。アンデスの「垂直統御」の環境利用(低地の熱帯雨林や砂漠地帯から高山の寒冷地まで、標高差3千メートルを超える各地帯の環境を利用し、多様な食料や物資を得る)もその頃に活発化したようです。
紀元前100年頃から、北部山地でも神殿が一斉に放棄されます。ただし、衰退や滅亡とは考えていません。自然災害などの影響もあったでしょうが、「直接生産に役立つものを作ろう」という、異なる方向性を目指すリーダーが出現したのかもしれません。
紀元200年頃になると灌漑農業が飛躍的に発展し、巨大な建造物とともに、形成期(ジャガーなどの動物と人間が融合した超自然的な造形が好まれた)には見られなかった、叙事的、写実的な表現の土器を特徴とする「モチェ文化」が登場します。階層化が進み、社会が次の段階へ移行したのです。
文化人類学を学ぶ意義とは?
現代社会は、インターネットの普及で情報量が飛躍的に増えた分、かえって一定の価値観に偏った見方になりがちです。文化人類学の役割は、文化の多様性を理解することによって、人類の可能性を広げていくことにあると言えます。同時に、異文化理解を通じて、自分たちの周囲のできごとに対して、より深く客観的に考える批判的思考力を身につけることでもあります。
人文系の学問分野は「工学系のようにすぐ役立つわけではない」とよくいわれますが、明日からでも世界観が180度変わるような機会を提供できる文化人類学は、きわめて実践的かつ「すぐ役立つ」学問といえるでしょう。